深海の底から

ゲームやら艦これやらエンターテイメントやら

全員を不幸にさせ続ける「艦これ」の「難しさ」

巷で溢れてる難しさって言葉、定義はなんだろうね

 よくまあ聞くじゃないか。この難しさは妥当とか、いや適切だとか。それでよく話がもめるけど、難しさってなんだろうね。

 クリアのしにくさ? じゃあ、クリアさせないよう道を狭めれば難しさなのだろうか。そう言われるといやそれは違うという気にもなる。難しいとか易しいとか最初に言い出したのは誰なのかしら。ノーマルって何がノーマルなんだろって考えたら夜は眠い。やっぱり皆夜は寝た方がいい。難しいゲームって難しいままでいいじゃないか。何で難しさを下げたり、上げたりするんだろう。

 簡単だ。ゲームなんだし。楽しむために難しさと言うのは存在する。

 楽しめない難しさというのは、難しさじゃない。個人的に気に入った言葉を引用したい。

というか「なんだよこれ、卑怯じゃないか!」と思われるような要因はできるだけ排除しなければならない。
ゲームの難易度について

 楽しくない。それは単なるゲームとしての失敗だ。だから楽しむためのゲームの「難しさ」は、ゲームバランスの中でも難しい。試行錯誤の歴史の積み重ね。とは言え、どうしてここまで人それぞれ評価が違うのだろうか? ここにはおそらくややこしい物が眠っている。

 なにせ「難しさ」には、種類がある。

この「難しさ」は誰のため?

挑戦するための「難しさ」

Mountaineers at Riedgletscher N°2

 エンドレスであった初代「セガテトリス」のクリアはどこにあったのだろうか。詰まったら? そう、大体そうだろう。テトリスを10分で終えたって、1時間後の超速を捌いて高スコアを叩きだしたって、各個人個人行けるところまで行ったというだけだ。しかしその行けるところが長ければ長いほど、ゲームオーバー後の充足感、人からの賞賛による満足は大きくなるだろう。

 一般的なイメージはこの難しさだろう。ここはメーカー側も時にクリアできるかどうか確認していないということがある。それでもトライしたければどうぞ、ということだろう。ただこの高い難しさ。気をつけないと「物理的にクリアが不可能」というものに人を追い立てることになる。ゲームにおいて、各プレイヤーが自作マップを公開する場合、一回自分でクリアしないと出来ない構造になっているのは、そういう事はよろしくないという、大切な不文律になっている。

 これはいわば、すごいことをやった、すごいことができた、どうだ! ということだ。どうしてそんなことするかって、そういうのは理屈じゃない。できれば楽しいじゃないか。そこに山があるからじゃないけれども、そこにチャレンジするところがある。ならやってみたくなる人間は一人や二人じゃない。7年と5ヶ月頑張る人は流石に少ないだろうけど。


THE HARDEST VIDEO GAME EVER! Dodonpachi ...

怒首領蜂大往生デスレーベルの2-1~2-5緋蜂改の発狂までの動画です。
発売から7年と5ヶ月かかりましたが、先日ついにクリアしました。

 ここのところがわかっていれば、クソゲークソゲーではない。
 わかっていたのが「ハローキティといっしょ!ブロッククラッシュ123!!」。ブロック崩しゲームの枠を超えたおぞましい「難しさ」を持ったためにクソゲーと呼ばれた。 だが、報酬であるイラストをHPで公開し、報酬を無意味にすることで「プレイヤー物語」に特化したゲームに仕上がった。高山の頂上から宝を取り除くことは正解なのだ。高山の頂上に辿り着いた事こそが、何にも代えがたい宝なのだから。無論。登らなかったって、途中で諦めたって、誰も自分もそれを気に病む必要はない。たどり着いた所が各々の宝となる。

 全く不思議なものだ。プレイヤーから宝を取り上げることで、結果全てのプレイヤーが平等に宝を持てるのだ。

その昔、ゲームの楽しさは「難しさ」に集中していた

 昔のゲームが難しかったというのは、データ量や表現の制約から、挑戦するための「難しさ」の充実に集中しなければならないと言う事情があった。純粋なゲームなんだから、自分の行けるところまで行って、そこがゲームクリアだ。「ゼビウス」なんかは濃厚な背景となる物語を持っているが、ゲームとしては純粋なシューティングゲームだ。「大魔界村」も、お姫様を救いに行くゲームだけど、途中でやめることへの精神的ハードルは低い。

 別に途中で、やめてもいい。

 でもゲームは進化した。ゲーム性だけではなく、ストーリーにも幅を持たせられるようにする事もできるようになった。ゲーム内物語の誕生。小説やアニメとは違ったエンターテイメントの誕生だ。バンザイ! さてここで聞きたい。とても面白い本を読んでいて、突然「君はここまでね」と言って本を閉じられたら、どう思う?

その「難しさ」は誰のため?

物語のための「難しさ」と、それを中断させる「難しさ」

 RPGで、大仰に出てきたラスボスが雑魚だったら肩透かしを食うだろう。

 一方で、実は今まで苦労してきたけどラスボスは非常に矮小な存在だったんですよという意味で雑魚だったら盛り上がるだろう。

 でも、「難しさ」としてはどちらも同じ。でも、背景の「物語」が違うのだから、ここで「難しさ」を変えると、「物語」と合わなくなってしまう。かと言って、世界を救わなければならないRPGで強大とされているラスボスを倒すのが乱数次第なんてことになったらイラッとする。今までの道程は何だったんだと。

 挑戦する「難しさ」と物語のための「難しさ」。これは現代ゲームにおいては黎明期よりバランスがシビアになっている。面白いシナリオと、やりごたえのあるゲーム。挑戦に集中するなら「難しさ」を上げればいい。でも素晴らしい物語のある作品で、挑戦を追求すると、何が起きるのだろう。
 その試行錯誤の例が2つある。

  •  キャサリン - CATHERINE - :「難しさ」の全体修正

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 ※グロ表現注意

  パズルゲーム「キャサリン - CATHERINE -」はアトラスの打ち出した物語と挑戦、どちらの意味でもやりごたえがあるしっかりした実に楽しいゲームである。結婚を迫られるが結婚からまだ逃げたい男ヴィンセントを軸に、謎の女性の登場から話が動き始める。夢の世界で何が? 実に結末が気になる、良いストーリーだ。「難しさ」の段階もイージー、ノーマル、ハードを用意。クリア後のやりこみ要素バベルモードを実装。可能な限り皆さんの要望にお応えいたします。

 しかし、このゲーム。「難しさ」の下限を間違えた。イージーでもクリアできないと問い合わせが殺到し、そのため急遽スーパーイージーという「難しさ」を追加するパッチがでたほどだ。つまり、かなりの量の人々の本を閉じてしまったと言う事だ。私個人イージーでも終盤マップは紙に書いてこれがこうなってあれがこうなってと考えても出来なくて公式サイトで公表されているヒントを見てしまった。そう、公式サイトでわざわざヒントを出さないといけないほどの「難しさ」だったのだ。

どうしても難しい方へ - キャサリンNews

>>いやまてよ。腕を上げればいいだけだろ。
>>そんなに上手くないんだよ。でもストーリーは最後まで見たいんだ。
>>そんな都合のいいことがあるか
>>じゃあ何でストーリーなんて付けたんだよ

 これ、どっちが正しい? 正解は、どっちも正しい。だってゲームなんだもん。楽しみたいじゃないか。楽しむためにゲームやってるんじゃないか。物語か挑戦か。どっちを重視して楽しんでいるか。ただそれだけの違いで、ゲームを楽しみたいと言う気持ちは、変わらない。

 違うんだけど、変わらない。どちらも同じゲームのプレイヤーだ。腕を上げればいいと一言言ったって、時間が無かったりどうしても難しかったり、どうしようもない人は楽しむ資格が無いのか? いや、もうちょっとがんばれよ。そういいたい気持ちはわかる。

 でも考えて欲しい。その資格の基準はどの程度だろう? 開発側がリリースしたバランス? そのバランスの正しさを保証してくれるものはどこにある? その基準が正しい事は、誰が保証してくれるんだろう? そもそも保証されるのか、これ。

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 FPS TPS「Gears of War」は、PVから感じるやるせなさ通り、主人公マーカス・フェニックスと戦争の虚しさ、悲惨さ、憤りを共にしていくしっかりしたストーリーを備えている。「難しさ」をCasual、Normal、Hardcore、Insane という段階を用意。ストーリーだけなら Casual だって楽しめる。物語と挑戦にも配慮したFPSとしてのやりごたえ十分な3部作のゲームだ。

 このゲームも「難しさ」の設定を間違えた。それも、ある一部分だけで。
 「1」のラストで「ラーム将軍」と言うラスボスが登場する。このラーム将軍を討ち取ることでエンディングだ。でもこのラーム将軍。 Casual モード(イージー)でも討ち取るのが恐ろしく難しい。いや本当に。最初にプレイした時はやりこんで Hardcore までは撃破したが、最高難易度の Insane は無理だった。今なら Casual でもやりたくない。

ゲーム、CD他色々レビュー Darkly Review: ミニ攻略 ラーム将軍が倒せない!

  ラスボスということ、三部作の最初であったこと、最悪ハメ技が存在することもあり、「1」の評価はそこまでラーム将軍のせいで悪くなったわけではない。だが「2」「3」で「ゲーム内物語」上ラーム将軍以上とされるキャラは登場しても、ラーム将軍以上の「難しさ」は登場しなかった。開発側は、ラーム将軍の「難しさ」を失敗と判断したのだろう。

あれに比べればラームはかわいいもんだ」

 「2」における主人公マーカスのセリフ。「1」からやってた私は即座にツッコんだ。シナリオの整合性と「難しさ」。物語と挑戦、両方を低下させる事になったとしても、「2」以降ラーム将軍という「難しさ」を排除したのだ。

 でもそれは良い方向に向かった。ラーム将軍はヘイトを集めるどころか歴代最強として尊敬の意を集め、「3」ではとうとうラーム将軍メインのDLCまで出されることとなった。これがナンバリングを重ねるたびにラーム将軍より「難しさ」が高い敵が出てきたら……。あまり考えたくはない。

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 挑戦を追いかければいいというわけでもない。物語と挑戦。現代ゲームはこれからこの2つのバランスを取ることに注目されるだろう。例えばゲームで苦戦したところが、うまく苦戦しているという物語であった場合、ラーム将軍というカリスマになる。ラスボスはやはり苦労したい。でもクリアしなければ意味が無い。いやはや、ややこしくなったことだ。

 「難しさ」を追求するだけでは多くのプレイヤーを満足させることは出来ない。じゃあ「難しさ」を消す? それはそれで極端だ。ヌルゲーで良い? そのヌルいの基準はどこにある? その基準が正しい事は、誰が保証してくれるんだろう? 

 結局試行錯誤しつつ、バランスをとるしかない。物語にとって「難しさ」は匙加減が難しい。「難しさ」を下げることは勇気のいることとされる。挑戦したい人たちにとっちゃ、苦労したのにあとから来た人間に簡単にクリアされちゃ、たまったもんじゃない。そう思いたくなる。でも結局、上の2つの例はそうはならなかった。

最大多数の最大幸福を求めないと、誰も賞賛してくれない

Handclap

 そう、勘違いしてはいけない。
 求めているものが違うだけで、お互い同じゲームをしているプレイヤーなのだ。「お前のしてるゲームは糞だ」などと罵られることは、挑戦に対する侮辱だ。だから難易度を下げてでも多くの人がそれぞれ楽しめる事こそが、高い「難しさ」の価値を上げる。だから不安にならなくていい。低い「難しさ」が存在することは、プレイヤーの価値を落としたりしないんだ。むしろ、裾野が広がれば、価値を上げることになるんだ。

 バランス、全てはバランス。難しくなることが悪いことじゃない。簡単になることが悪いわけじゃない。多くのプレイヤーが楽しめないこと。プレイヤー同士がいがみ合い嫌な空気になる。これはもう、まったくもって楽しくない。

 ゲームに難易度が何故あるか。それはそれぞれのプレイヤーに適した「難しさ」を選んでもらうため。そうすると楽しいから。

 そう、楽しめなきゃゲームじゃない。「難しさ」だって、所詮その一つの要素でしかないんだ。楽しみ方は人それぞれ。多くが楽しめた上で、見返りのない突き詰めた「難しさ」にチャレンジするからこそプレイヤーの価値は高くなるんだ。最大多数の最大幸福。ゲームバランスとはよく言ったものだ。では艦これはどう捉えればいいんだろう。

 昔のゲームのような挑戦を突き詰めるものだろうか。

 でもそうじゃ、ないんだよね。

艦これは濃厚で繊細な「ゲームの物語」を持つゲーム

旧日本軍コンテンツが持つ宿命

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  旧日本軍をテーマにしたゲームで、二回目負けたい?

 大体のプレイヤーは首を振る。いくらなんでも、旧日本軍が戦争に負けたことくらい知っている。詳しいことは知らないけど、かつて敗北した軍を率いて、また負けるなんてことは避けたいと願う。

  そうなのだ。艦これを始め旧日本軍をテーマとするというゲーム自体ははじめから「物語」を持たされる。旧日本軍コンテンツという、濃厚で繊細な「物語」を 持つことを強いられる。これから逃げることは許されない。そりゃ、愛国心なんて御大層なものは持っちゃいないけども。やっぱり心情的には思い入れがこもっ てしまうのも仕方ない。にんげんだもの

キャラ収集ゲームが持つ宿命

When Box Cameras go to Heaven... (a collection glimpse)

 それとは別に、過去とか背景とかどうでもいい、キャラを手に入れたい。きゃっきゃうふふしたい。妄想したい。ソーシャルゲームの受ける最大の理由がここで、だからみんなガチャを回す。絶対防衛レヴィアタンにつぎ込んだ金額はちょっと思い出したくないけど後悔はない。可愛いんだ欲しいんだしょうがないじゃないか。わかってるよ、それがデータだってことくらい。

 艦隊これくしょんの人気の根源は、可愛らしいキャラの魅力とか、帝国海軍の再建というロマンとか、そういうゲーム外にある「ゲーム内物語」要素が組み合わさったもので成立している。まーたややこしい話だ。キャラ収集ゲームと海軍は親和性が高いらしい。古今東西、アルゴ号の船首像だの、女が乗ると船が嫉妬するだの、船に女性を見るのは自然なことなのかもしれない。
 だから「これくしょん」して愛でたい。これも言わば「ゲームの物語」の一種で、そりゃ山城が一人で姉の姿を追ってたら扶桑を手に入れたくなるだろう。翔鶴が居ない妹を探していたら瑞鶴を手に入れたくなるだろう。それで楽しんで良い。問題なんて何もない。

 こういった向いている方向が様々なプレイヤーたち。このカオスな状況を見て、肩をすくめて呟いてみたくなる「全てのプレイヤーを満足させるなんて無理だよ」。でもそうじゃない。そんなニヒリズムに浸っても仕方がない。答えはもう言ったじゃないか。「嫌ならやらなくていい。山頂には何もない。登りたい奴だけ登れ」つまり、「嫌なことを強制しなければいい」。

 ただそれだけのことを、艦これが避け続けた結果、皆がいがみ合っている。

「嫌なこと」を強制し続ける艦これ

I hereby volunteer

イベントをクリアしないなら、本の続きは当分おあずけ

 慌てなくてもいつかはこれくしょんできる。
 それは残念ながら嘘だ。13秋の武蔵が大型建造に入るまで何ヶ月かかったか。秋月は? U-511 は? 天城は? 皆気軽に手に入るものじゃない。通常建造に新しい艦娘が加わったのはいつが最後だろう。年四回しかないイベント海域を攻略して、さらに少ない確率のドロップに挑まなければならない。はてさて、これは「難しさ」というのだろうか? 言わないよね。こういうのはただ「ケチ臭い」だけだ。

 トライして僅かな確率を選ばないと取れない。それはさも当たり前のように捉えがちであるけれど、いつ手に入るか全く見えない上に、いざその時が来ても手に入る保証がない。じゃあ、嫌でもやらないと、いけないんだよね。

 結局山道はぶつくさぶつくさいう人であふれるわけで。「嫌ならやるなよ」その言葉は通じないんだ。「やらなきゃもっと嫌」なんだから。

勲章4つを取らないと、閉じてしまう本

 Extra Operationは2014年3月に実装された。攻略しないと次の海域に取り掛かれない従来海域とは違うやる必要のない海域。の、はずだった。攻略するともらえる勲章だって、いかにもよくやりましたねという挑戦の象徴に見える。この数は宝である。俺はこれだけ頑張ったんだぞという。それでよかったのに……。

  そう、改装設計図の誕生だ。せっかく作った海域を皆に楽しんでもらいたい。大変な海域だから、報酬を置こう。良かれと思って、キャラ手に入れたい。帝国海軍再建したい。「これくしょん」したい。物語を重視する人たちに対して山頂に宝をおいたのだ。山道は人で溢れかえり、ぶつぶつとした文句で溢れかえる。山の麓ではどうしても山に登れない人たちの怨嗟であふれる。
 これは挑戦を重視するプレイヤーにとっても良いことではない。楽しくて山に登ってるのに、その山のことをクソミソに言われるのだ。名誉は消え、「あんな山に登って楽しいの?」などと聞かれる始末だ。何でそんなこと言われなきゃいけないんだ? 間違いなく楽しいから登っているのに……。

イベントをクリアしなければ、バッドで閉じてしまう本

 14年夏イベント、最終海域E-6。「本土強襲」だったが、運営からの言葉は「参加は任意」であった。

 これについて細々言う必要もないだろう。

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[画像追記] 使用できないため参加は任意ってのもひどい話だ。

 本土防衛なんてやらなきゃ寝覚めの悪い物語を用意しておいて、「任意」ってなんだよ。

 その上、この海域の存在は不正アクセスによって流れなければ存在すら明かされなかった。出撃制限システムが実装されていたので、ひとつ間違えると「物理的にクリアが不可能」という状態になっていたわけだ。これだけじゃない。アップデートの度に信じられないことが増える。もう誰も運営を信じない。信じられない。

もはや何だかよくわからないけど皆突撃する

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  だから今回も、みんな必至に突撃した。

 「照月」は今後いつ手に入るかわからない。「秋津洲」のように次回の海域攻略に必須になる。「カタパルト」のように改二に必要かもしれない。「甲勲章」は持っておかないと……。

 「反撃!第二次SN作戦」のExtra Operationは本来やらなくていいはずだ。だってExtraって言ってるんだから。でもそれをクリアしないと「照月」は出ない。だからぶつくさぶつくさ言いながら攻略するハメになる。「挑戦者向け海域」なはずなのに、別に挑戦者じゃないプレイヤーも登ることを強要される。そして挑戦者は言われるわけだ。「こんなの面白いなんて頭おかしいんじゃないの」そして挑戦者は言うわけだ「俺はこれくらいがいいのにそんなにヌルゲーがいいのか」

 イライライライラと。

 緩やかなソーシャルは今や鉄火場だ。この地獄を作り上げたのは、運営に他ならない。

 お見事。すべての人を満足させるのは難しいけど、すべての人を不幸にするのも難しい。

 すべての人を不幸にする。それをやり遂げた運営には拍手しかない。

 

 拍手する。拍手するから。

 

 頼む、もうやめてくれ。